空飛ぶくじら

世界の美しさを封印

My favorite things

 ・ふかふか座面のラウンジチェア、着色銅器のペンダントライト、無垢材のサイドテーブル、さわり心地のいい毛布、洗いたてのシーツ、顔を埋めたくなる長座布団、全部わたしのお気に入り。

このラウンジチェアはいつか絶対買うと決めている。おおきなテレビの前に置いて、お気に入りの映画たちを一人占めにするのだ。高校生の時は年収一千万とかいう味気ない夢をかかげていたが、こうした些細なことが幸せになるのがオトナというものなのだろう。健全に生きているだけで幸せだ。わたし、毎日、頑張って、息、してる。

 

・しばらく溜まっていた洗濯物を、容量五キロ(一人暮らし用)の洗濯機にあらん限り詰め込んだ。洗濯機がそれらをやっつけている間、わたしは先日食べたすき焼きにうどんをいれ、映画を見ながらすする。すると、あっちの方から盗人が家捜しするような音がバタバタときこえ、何かと思えば洗濯機の脱水がキャパシティを超えるか超えないかの瀬戸際にいるらしく、わたしはうどんをすすりながら横目で洗濯機を応援した。

 

・今日はマグカップを買った。 

まるっこいフォルムの両手で包めるタイプのもの。まるいものは好きだ。平面的なまるは苦手だが、球体は大歓迎。りんごのフォルムが一番すき。

 

・最近「サウンドオブミュージック」を見た所為で脳内がめちゃくちゃミュージカルである。極めつけに「アニー」も見てしまったので、そのへんの人が急に踊り出さないかひやひやしている。していないけど。フラッシュモブかよ。語感的に「フラッシュモブ」の雑魚キャラ感がすごい。

 

・座椅子型のソファにコタツ、そしてついにふかふかの長座布団という快適三拍子がそろってしまったのでわたしの冬支度は無敵モードである。いつでも引きこもる覚悟はあるぞ。蓄えた皮下脂肪を甘く見るな。冬は余裕で越せる。

「コタツで寝ると風邪をひくから布団で寝なさい」親などに言われた人は少なからずわたしだけではないはず。人間は恒温動物なのでホメオスタシスというすばらしい機能のおかげでわたしたちは日々の体温調節をおこなっている。しかし、わたしのように稀に体温調節が下手っぴな人がいるのはさておき、コタツで寝てしまうと体温調節ができず、自律神経が混乱して免疫力が低下、その結果風邪をひいてしまうのだ。

そう、理屈は分かっている。分かっていてもやってしまうときがあるわたしを許してほしい。主よ、どうか自分に甘いわたしをお許しください。その結果欲望に忠実(主に食)なわたしを許してください。父と子と聖霊の御名において、アーメン。

 

 

タルト・モンブラン

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ここ数週間の山場を越えたので、ケーキを食べた。糖分最高。寒さに震えて糖分を生成しなくても、外部から摂取するのが一番美味しい。文化的な生活。

 

睡眠不足からのオール明けはつらい。わたしから睡眠を取ればきっと跡形もなくなる。

眠気で身体に力が入らなかったのと荷物で下が見えなかったのと元来の性分(おっちょこちょい)が合わさって、帰る際に階段を2段ほど踏み違えてすっ転び、ひざを擦りむけ、足首を軽く捻挫した。消毒や湿布よりも、真っ先に布団が目に浮かんだ。わたしの万能薬は布団だ。四百四病に効く。

 

ゆず風呂に入った。ネットに入れて風の音を聞きながら(今日は風が強い)、ぼんやり冬について考えていた。

寒いのは苦手だけど、冬は好きだ。採暖効率の悪いコタツと、同じく採暖効率の悪い電気ストーブ、毛布にくるまりながら鍋をつつく。局所的な採暖を合わせてあったまる。そしてお風呂。冬のお風呂が好きだ。寒い中あたたまる過程が好きだと思う。

それに、冬の匂いも良い。何を以ってして冬の匂いといっているのか、自分でもよくわからないけど、透きとおるようなすっきりとした雰囲気が秋の匂いなら、すこし煤けた静かな感じが冬の匂いだと思う。雪が降る前の匂いも好き。

嗅覚がある面に関して長けている。そのせいで化学物質過敏症みたいな、アレルギーめいた体質なのだと思う。アレルギー源(タバコや香水の臭い)を感知すると、鼻と脳が直結してるのですぐに吐き気と偏頭痛を併発する。最悪だ。鈍感な方が断然いい。真っ先に自然淘汰される分類ではないか。

 

ヒトはみんな、土ではなく布団が還る場所なのだろうと思うくらいには、布団が産土だ。寝よう。

スイートポテト

寒さの中で、野菜は甘みを増す。

それは冬の寒さを生きるため。水よりも砂糖水の方が凍りにくいように、凍る温度を下げるために糖を生成する。

今年は寒い。 わたしもこの冬を越えれば、甘味が増した市場価値の高いヒトになるのだろうか。そんなのは嫌だ。人生の甘いところだけを吸い尽くしたい。他人が決めた枠にはめられた評価など要るか。

こうした甘えたことを口にするたび、わたしは何も成し遂げずに人生を全うするのではないかという焦燥に駆られるときがある。何も成し遂げないことを成し遂げようか。その方が、いっそ清々しい。

 

冬を迎え、年を越すごとにわたしは何者に向かって生きているのだろうか、と考える。社会を憂い、徐々に偏屈になっていく。

 

眠い。可処分エネルギーがあるにもかかわらず、その日1日の消費体力に見合わない分の睡眠を求めてしまう。いや、寒いからエネルギーを過剰に消費しているのか。燃費が悪い。天候・季節に合わせて社会的なヒトの活動時間も変動すればいいのに。生物学に反している。冬は眠るべきではないのか。

 

今日はおやつにスイートポテトを食べた。

ここ最近、運動量に反して食べる量が増えている。この調子では数年後には胃袋がブラックホール化するだろう。そうすれば、ブラックホールの謎は解明され、反重力装置を発明。兵器として活用され、ついには太陽系は消滅する。或いは小型化されたブラックホールのせいで時空は歪み、ついには消滅する。どちらにしろ暗い未来しかない。

今すぐにでも食事制限せねば、地球の未来はわたしの胃袋にかかっている。

今日もご飯おかわりした。平和だ。

 

 

 

 

 

 

ピアスの穴を開けた。

運命を変えたい、とかそんな思いで。開けてしまったあとは、運命が変わったのかどうか判別することはできないけれど。そもそも運命なんて自分の思い込みで、誰にも何も決められていないだろうと。いったい誰に許しを請うのだろうと。そう思った日の夜の闇はいつもより暗く鮮明に見えた。

闇を飲み込んだ海は、夜空と一体となってうねりをあげる。昼間隠れていた星が一面に広がる。その星の数だけ、わたしの運命がある。まるで闇に穴をあけて光を通したような星の群れに、遠く先人が繋いだ秩序を同じようになぞってみる。無秩序から秩序を造形する。それがわたしたちの行動の基盤だ。

運命が変わる瞬間に、ちりりんと頭の奥で音が鳴ればいいのに。そう思ったことがある。しかし、選択の連続である日常生活では運命の変わり目は無限に乱立しており、きっと耳をふさがずにはいられない。目まぐるしく連続する選択はまるで無造作に散らかった星のようで、それはすなわちわたしの無限ある運命だった。

そう気づいたころには、わたしの耳に穴を空けてから4年ばかし経っていて、迷信でもなんでもいいからすがりつきたかったあの頃の自分を許せるような気がした。そうか。許しを請うていたのは未来の自分に対してだったのか。

 明日は花柄のピアスをつけていこう。

 

 

 

美しく調和のある世界③



計画とは倒すために立てるものである。とりわけ計画が緻密になればなるほど、駅前に並ぶ自転車が一つ倒れると将棋倒しになるがごとく、出鼻をくじかれればその日の予定はしっちゃかめっちゃかになる。それが自然の摂理だろう。

旅行計画とは得てしてそういうものである。


6時にセットされた目覚ましに起こされて不機嫌なわたしは目覚ましをかけ直し、結局は7時に起床する。完全に出遅れた感が否めない。早起きして混雑する前の清水寺をゆっくり参拝しようという算段が水泡に帰しかけた。
居心地のいいベッドに別れを告げホテルをチェックアウトして外に出ると、眩しいほどの快晴が建物の奥に広がっていた。
駅前でコインロッカーに荷物を預け、バスに乗る。

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朝の二年坂は閑散としていた。
華やかな和服を着た男女と撮影機械を携えた人々の横を通り過ぎる。どうやら結婚式の撮影のようだった。
産寧坂に合流するところで人ごみにぶつかった。韓国人ツアー団体、修学旅行の学生集団、中国人の夫婦、国籍雑多な人々。行く先はみな同じだろう。
両サイドに軒を連ねる土産物店に光走性で反応する蛾のごとくふらふらと迷いこむツアー客の集団の中を颯爽と風を切って歩く。

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清水の舞台からの眺めは絶景で、羽が生えて飛んでいけそうな気がした。理性を失って大怪我をする前に早々に立ち去ろう。正確には修学旅行生がおみくじやら写真撮影やらで押し合いへし合いし出したからである。そんなところで桃色遊戯的おしくらまんじゅうをするつもりはない。人恋しさに負けてたまるか。

舞台を過ぎた先には縁結びで有名な地主神社があった。みれば祭神は大国主命。御丁寧に因幡の素兎まで二足立ちで出迎えてくれている。
境内は色めき立つ和服姿の修学旅行生で溢れかえっていて、いつか黒歴史の一部となるべき青春の一頁を今まさに謳歌している様子にわたしの思い出したくない酸性の過去まで思い出され危うく涙腺が決壊するところであった。
欲しがりません行くまでは、の精神で夏に出雲大社へ縁結びのお参りに行くと固く決心をし、挨拶程度参拝してからその場をあとにした。


二年坂を下って高台寺を冷やかし程度覗き、さらに下って安井金比羅宮を参った。見た感じ普通の神社となんら変わりない。しかし社務所前には何やら白いかまくらのようなものがあり、よく見るとどうやらビッシリと紙が貼り付いているせいで真っ白ならしい。陰陽師が使うヒトガタのようだった。隣にたくさんある絵馬のなかにはおびただしい文字が交錯しており、文字自身が生命を宿した妖怪のように思えてわたしは少々酩酊した感覚に陥った。
逃げるようにその場を去ろうとすると白猫が目前を横切った。西洋で黒猫が横切ると不吉とするなら、これはもしかして吉兆のしるしなのでは。全く身に覚えのない日頃の善行がついに功を奏したようである。

祇園でバスに乗り、四条高倉で降りて佛光寺に向かう。境内の中にあるカフェで京野菜ランチを食べた。水菜の胡麻和えを咀嚼していると何かが口内でゴリっという音をたてた。矯正の金具が取れたのである。わたしは憤慨した。何が吉兆のしるしだ。

満腹になったあと、バスでゆらりと嵐山へ向かった。そこは車道に溢れるほどの観光客のごった煮。心底混ざりたくない鍋の底から這い出るように野の宮のバス停を左に折れると、青々とした竹林のささやき声をかき消すような種々雑多な言語とカメラのシャッター音。良縁欲しさに立ち寄った野宮神社の狭い境内は、赤い糸がこんがらがって収拾がつかなくなるのではと懸念するほどの人口密度を有していた。
とにかく人、人、人、ホモサピエンス!よりによって斎宮に所縁のある神聖な日本の神社の中でグローバルな交流を行う気など毛頭ない。静かに参拝させてくれというわたしの内心の祈りもむなしく冬の高空に溶けた。
特にカップル。相手がいる以上に何を望むのだ。他の縁でも結ぶ気か。ひとり身を冷やかすつもりで参拝しに来たのなら阿呆神が黙っていないぞ。手がふやけるまで末永く爆発して然るべし。


文章にまとまりがなくなってきた。苦手な早起きを連日強いられているせいでまともな思考が困難である。椎茸のほうがまだまともだ。
明日も6時起きで、これで月曜日から毎日6時起きということになる。6時なんて大学生にとってはやっと夜が更けてきた頃だ。日の出もまだではないか。


野の宮に来たバスに滑りこみ、立派な松が並ぶ大覚寺にやってきた。

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とても立派である。昔のみやびな都人が歌に詠みたくなる気持ちもわかる。

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玄関はとても立派だった。いかにも帝が乗ってそうな御輿である。
ここものんびりできるお寺であった。嵯峨御所ということもあり、長い回廊と広い敷地、凝った庭園など当時の生活が垣間見えるような優雅な美しさがそこにあった。
垣間見、といえば貴族の男が良い女人を庭の垣根の合間から覗き見る様子を思い浮かべてしまう。歌を詠んで文を渡し、夜這いし、恋に破れ生霊になり、昔の貴族は恋の火遊びに大忙しである。わたしは思った。もっと他にやることはないのか。


ぎりぎりに仁和寺を参拝した。ぎりぎりだったためにすぐに京都駅に戻る羽目になり、すでに見飽きてしまった京都タワーを目指してバスに揺られた。
こうして、今回の旅の幕は閉じた。


お忘れかもしれないが、この日の計画は初っ端から頓挫している。よって起床以降、行き当たりばったりで予定を詰め込んだ。今回の教訓は、計画は緻密に立てない、ということだろう。





美しく調和のある世界②


好きな作家を北から南へ鴨川に沿って順に並べていいと言われたら、川の分かれ目である最北の鴨川デルタに君臨するのはモリミー先生であると断言する。森見登美彦氏。古風でユーモア溢れる文体と魅力的な登場人物でわたしを無闇に魅了し、京都の底なし沼に「こっちの水は甘いヨ」といたずらに蛍を誘うように引き込んだのは紛れもなく先生の著書である。

夜は短し歩けよ乙女』の中で「美しく調和のある人生」という言葉が出てくる。それがこの記事のタイトルでもあり、わたしの生活のモットーでもある。
そんな、まあはっきり結末を言ってしまえば唾棄すべきラブロマンスであるのには変わりないのだが、わたしはこの作品が一番気に入っている。いや、一番というには早とちりかしら。先生の著書はどれも面白いので一番は決められない。
そのラブロマンスの中の最後に登場するのが、京大北門前の喫茶、進々堂だ。
はじめはちょっとした聖地巡礼のつもりで訪れたのだけど、それが読書に最適な空間で、わたしは忽ちその由緒ある喫茶店の虜になったのだった。

進々堂は重厚感のある内装と、室内に充満する珈琲の香り、囁くような話し声と今の時期はひたすらストーブの音のみで、とても落ち着ける雰囲気になっている。

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名物のカレーパンセット。美味しい。
ふらりと寄ったときのカフェオレも美味。
一人行動が多く静かな空間を好むわたしにとっては絶好の場所である。この進々堂のために出町柳周辺に引っ越そうか考えたくらいだ。今は京都人の家に嫁げないか画策中である。誰かもらってください。


お腹を膨らましたあと、バスに乗って京都造形芸術大学前で降りた。そこから乗車料金が上がるので徒歩。ひたすらゆるやかな坂を上る。ゆるやかといえど体力は削がれていく。

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そして到着したのは詩仙堂。竹林から差し込む木漏れ日が風流である。嵐山の竹林とはまた別な美しさがある。あちらは多種雑多な観光客が多い分、日中は何かと俗っぽく感じてしまう。夜は怖そう。

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畳の上に毛氈が敷かれているだけでそこが座る場所と一目瞭然である。ただ布切れ一枚敷いてあるだけの空間がなぜか趣深くなる。縁側でぼんやりと陽に当たりながら庭を眺めるのはそれだけで心が癒える気がするのだ。別に傷ついてはいないけど。


詩仙堂を出るとまた少し坂を登り、隣の八大神社を参拝した。何でも、一乗寺下り松の決闘が行われた場所で、岩のように丸くなった下り松が恭しく祀られていた。それより御神木の樅と杉の大きさに本当にひっくり返りそうになった。見上げすぎた。夏の暑い日にあの御神木の下に涼みに行きたいなあ、と思った。

八大神社を出て右に向かう。ひたすらのぼる。
のぼってのぼって、やっと狸谷山不動院の幟が見えてくる。
車祓いの場所を通りすぎて、健康階段と呼ばれる250段ある階段をまたひたすらのぼる。このまま昇天しそうだ。
ところどころいる狸の置物、たまに狐や変な置物が置かれていたりしてじつはほとんどは狸が化けてるんじゃないかという気になってきた。こうなるともう何もかもが狸に化かされているのでは、本当はこの階段も全て狸の仕業でちゃんと数えたら500段ほどあって参拝客の脚を粉砕する気なのではないかと最後は己の精神との闘いになる、というところまではいかなかったが眺めは最高だった。

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木々に埋もれているが遠くにうっすら見えるのは京都市街である。完全に下界だ。心なしか空気も澄んでいて、今の時期は寒いが夏の暑い日とかに涼みに行きたいな、と思った。夏は涼むのに忙しそうだ。

下界におりて圓光寺に向かう。

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白梅が空に映えて綺麗だった。圓光寺もわりとぼんやりできるお寺で、時間の流れが比較的ゆるやか。漢文の学校だった(?)らしく般若心経の活字版などが飾ってあった。

最後に日が暮れるぎりぎりに訪れたのが大豊神社。どうしても狛ねずみが見たかった。
フルーツバスケットという漫画があるのだが(これの面白さも格別だ)、ストーリーに十二支が大きく関わっており主人公の草摩由希の役割が子、つまりねずみなのだ。これとかどう見ても由希。

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お賽銭や参拝料などで財布の紐がゆるみ、もともとあまりない金銭がさらに余裕がなくなってきたので夕飯は安くてそれなりに美味しくお腹いっぱいになるレストランまどいに行きました。欲張りなCセットが好き。


ということで今回は何だか多く書きすぎた。
次回は3日目について紹介する。



美しく調和のある世界①


けがれきった身を清めるには一人旅はうってつけである。

特に魔都、京都。その飽くなき魅力に一度取り憑かれたが最後、神社仏閣に惜しみなく金銭をつぎ込んでは神仏を参拝し、俗世から隔離された歴史的建築物に吸い込まれては無の境地に至る。まるでズブズブな底なし沼である。

そんな網目状に無数に魔が張りめぐる古都へ今年もまた参上した。ちなみに去年は通算6回、一人旅で訪れた。「非観光的な観光」をモットーに、ときには観光客に道を訊かれるほどひっそりと地元民に溶け込んで京の街を駆け回っている。

今回は二泊三日。ゆっくり観光できると思っていた当初のわたしは救いようのない阿呆だった。

1日目は毎回真っ先に訪れる下鴨神社を参拝した。わたしはここを鎮守している糺ノ森がとても好きで、森の中をぼんやりと歩くのが何とも風流なのである。しかしまだ外は寒くて仕方ない。ぶるぶる震えながらぼんやりとするのは至難の技だ。

下鴨神社の由来は古く、祭神は賀茂建角身命玉依媛命である。上賀茂神社の親族だ。祭神の関係は聞いたけど何だかややこしくてややこしく覚えているので説明できない。詳しくは検索しよう。断じてややこしくて覚えられていないわけではない。

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こちらは縁結びの相生社である。
流造の屋根にみっちりと苔が張っている。下鴨神社の本殿も流造であり、宇治上神社平野神社も流造である。
古代、わたしたちの遠い祖先は竪穴住居に住んでいた。もちろん竪穴というからには屋根は壁であり、壁は屋根であった。屋根は地面から離れたあともその様式は多岐にわたり、さまざまなものを表現する方法としても存在する。神社仏閣の屋根は面白い。だからわたしは古い建物を見るとき、まず屋根に注目する。

下鴨神社梅の花はほぼ満開だった。
こうして色鮮やかな花を見るともう春だな、としっとりと考える。しっとりと考えても存分に吹き荒れる冬の寒風に打ちのめされて、「やっぱり春まだじゃね?」と梅の花に問いただしたくなる。風で乱れた髪を直すためにポケットから手を出すのも惜しい。それにどちらかといえばしっとりとしているのはポケットの中でじわじわ手汗にまみれたわたしの手の方で、やはり春はまだ当分先のように感じる。

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ちなみにこちら、下鴨神社梅の花は、「光琳の梅」と呼ばれる。まさしくその名にふさわしい鮮やかさである。


いつものように下鴨神社の境内にある「さるや」でおしるこを飲んで一服し、近くの「下鴨デリ」で昼を済ませた。


北野天満宮の近くにある平野神社は、由緒ある神社らしく屋根が大変趣深かった。

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御神木の楠の存在感が半端ではなく、腐海の森も一瞬で浄化されるのでは、と思うほど神々しかった。あまりにも神々しかったので首が折れるほど木を見上げ、ついにはぽっきりと折れた。冗談だ。


ついでに金閣寺を参拝したが、もはや参拝というより撮影会で、多種雑多なホモサピエンスが放し飼いされている様子を見にきているような錯覚に陥った。

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水に映える姿はとても綺麗。金閣寺を訪れたのは修学旅行以来だった。意外とこじんまりとしていて浮島のようである。わたしは金箔でてろてろに装飾されている上層より、下層部のほうがなんだか好感がもてた。
のんびりと観覧する余裕もなく、否が応でも動物園の檻の中に放り込まれた気分を味わわされる。そんなオプションは要らない。



ということでかようにして1日目は終わる。
次回は2日目を紹介する。