空飛ぶくじら

世界の美しさを封印

美しく調和のある世界①


けがれきった身を清めるには一人旅はうってつけである。

特に魔都、京都。その飽くなき魅力に一度取り憑かれたが最後、神社仏閣に惜しみなく金銭をつぎ込んでは神仏を参拝し、俗世から隔離された歴史的建築物に吸い込まれては無の境地に至る。まるでズブズブな底なし沼である。

そんな網目状に無数に魔が張りめぐる古都へ今年もまた参上した。ちなみに去年は通算6回、一人旅で訪れた。「非観光的な観光」をモットーに、ときには観光客に道を訊かれるほどひっそりと地元民に溶け込んで京の街を駆け回っている。

今回は二泊三日。ゆっくり観光できると思っていた当初のわたしは救いようのない阿呆だった。

1日目は毎回真っ先に訪れる下鴨神社を参拝した。わたしはここを鎮守している糺ノ森がとても好きで、森の中をぼんやりと歩くのが何とも風流なのである。しかしまだ外は寒くて仕方ない。ぶるぶる震えながらぼんやりとするのは至難の技だ。

下鴨神社の由来は古く、祭神は賀茂建角身命玉依媛命である。上賀茂神社の親族だ。祭神の関係は聞いたけど何だかややこしくてややこしく覚えているので説明できない。詳しくは検索しよう。断じてややこしくて覚えられていないわけではない。

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こちらは縁結びの相生社である。
流造の屋根にみっちりと苔が張っている。下鴨神社の本殿も流造であり、宇治上神社平野神社も流造である。
古代、わたしたちの遠い祖先は竪穴住居に住んでいた。もちろん竪穴というからには屋根は壁であり、壁は屋根であった。屋根は地面から離れたあともその様式は多岐にわたり、さまざまなものを表現する方法としても存在する。神社仏閣の屋根は面白い。だからわたしは古い建物を見るとき、まず屋根に注目する。

下鴨神社梅の花はほぼ満開だった。
こうして色鮮やかな花を見るともう春だな、としっとりと考える。しっとりと考えても存分に吹き荒れる冬の寒風に打ちのめされて、「やっぱり春まだじゃね?」と梅の花に問いただしたくなる。風で乱れた髪を直すためにポケットから手を出すのも惜しい。それにどちらかといえばしっとりとしているのはポケットの中でじわじわ手汗にまみれたわたしの手の方で、やはり春はまだ当分先のように感じる。

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ちなみにこちら、下鴨神社梅の花は、「光琳の梅」と呼ばれる。まさしくその名にふさわしい鮮やかさである。


いつものように下鴨神社の境内にある「さるや」でおしるこを飲んで一服し、近くの「下鴨デリ」で昼を済ませた。


北野天満宮の近くにある平野神社は、由緒ある神社らしく屋根が大変趣深かった。

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御神木の楠の存在感が半端ではなく、腐海の森も一瞬で浄化されるのでは、と思うほど神々しかった。あまりにも神々しかったので首が折れるほど木を見上げ、ついにはぽっきりと折れた。冗談だ。


ついでに金閣寺を参拝したが、もはや参拝というより撮影会で、多種雑多なホモサピエンスが放し飼いされている様子を見にきているような錯覚に陥った。

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水に映える姿はとても綺麗。金閣寺を訪れたのは修学旅行以来だった。意外とこじんまりとしていて浮島のようである。わたしは金箔でてろてろに装飾されている上層より、下層部のほうがなんだか好感がもてた。
のんびりと観覧する余裕もなく、否が応でも動物園の檻の中に放り込まれた気分を味わわされる。そんなオプションは要らない。



ということでかようにして1日目は終わる。
次回は2日目を紹介する。