空飛ぶくじら

世界の美しさを封印

コットンタオル

今年に入ってから何千㎞移動をしているか、自分でも計り知れないくらいには移動している。ゲルマン民族もびっくりの大移動である。

乗り物酔いを全くしないので、本を読もうがお菓子を食べようが逆立ちしてようがへっちゃらなんだけど、どうしてもぼんやりと外を眺めてじっと移動に徹することがこの年になると多くなった。ちゃんと読みたい本も持参し、いつでも音楽を聴けるようにイヤホンも持ってきてお菓子や飲み物も準備する。移動中暇にならないようあれこれもってきても、結局じっとしてるか寝るかして目的地に着いてしまう。いろいろ無駄な荷物になることが多い。しかし元々財布と携帯以外持ち歩かない性分なので、これらがないとほぼ手ぶらになる。それでは少し心許ないので、無駄だとわかりつつも文庫本を忍ばせたりお菓子を買ってみたりして荷物を増やすのだ。

 

今年の夏も終わりが近い。

理不尽なことに腹をたてる機会が多くなり、わたしの周りには腹が乱立している。こうして身動きが取れなくなり、だんだん短気になり、機転を利かせることができなくなる。生きていけばいくほど、生きるのが下手になっていく。

社会人になれば遊ぶ時間がなくなる、と学生時代によく言われた。社会人とは何か。社会(の歯車として社会に消費される)人のことを指すのか。わたしはそんなのはまっぴらごめんだ。融通性が効かない社会に腹をたて、しかしわたしには何もできない。融通がきかないのに、みんな息を殺してひっそりと生きている。どうしてだろう。どうしてもっと寛容になれないんだろう。いつも思う。始まりには厳しいのに終わりには緩いなんて御都合主義にも程がある。

 

移動中、あまりにも寒いので(半袖、カーディガン忘れた)コンビニで小さめのバスタオルを買った。オーガニックコットンの肌触りのいいもの。

生きやすさ、を求めてはダメなんだろうか。わたしは少しでも楽をして生きたい。楽は悪、なんて誰が決めたのだろう。つらいことは避けたいし、楽しいことを進んでしていきたい。幸福追求権。平等にある権利を声高に主張したい。協調も大事だけど、誰かに遠慮して生きるのは嫌だ。