空飛ぶくじら

世界の美しさを封印

恋と酸欠

宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という詩を何かの節目によく思い出す。モラトリアムの闇の中に希望を見出すような、とにかく10代の頃に出会ってよかった作品だと心底思う。熱心に仏教研究をしていた宮沢賢治の自己犠牲を美徳とする聡明な死生観は、わたしにとって目が醒める思いがするほど強烈に脳裏に焼きついている考え方の1つだ。わたしにはそんなに透きとおった考え方はできない。歳をおうごとに心の底に澱のような冷血でどす黒い感情が沈殿し、過去が眩しく思えるほど、自分の未来が真っ暗に見える瞬間がある。日々のルーティンワークをただ半永久的に消費するだけの生活が、ただ果てしなくて苦しくてつらい。日々の生活に溺れる。特に何もしていないのに、特に何もしていないのがつらい。

 

最近すっかり冬の匂いになってきた。鼻がやたら敏感なわたしは立ち止まって季節の匂いを感じることが多い。特にこの、秋と冬が混じりあった空気が好きだ。厚手の毛布を出したりコタツを出したり電気ストーブを出したり、冬支度をする過程も好きだ。マフラーやコートに埋もれてる人を見るのも好きだ。寒がっている人はかわいいと思う。

頻繁に行き来している所為でよくわかるけど、日本海側と太平洋側でも空気が全然ちがう。日本海側が腹の底からしっとりと冷えるのに対し、太平洋側は突き抜けるような空に吸い込まれる冷たさ。同じ寒さ、同じ季節でも地域によって匂いがちがう。生まれてから25年、住むところも日本海側と太平洋側を何度も行き来している。勘違いかもしれないけど、日本海側でアトピーに悩まされていたのが太平洋側に引っ越したらぱたりと治り、また日本海側に戻って原因不明のクシャミに悩まされていたのが太平洋側にまた引っ越したらぱたりと治り、土地気候の向き不向きは少なからずあるんじゃないかと思う。わたしの場合は生まれこそ日本海側だけど、肌に合ってるのは太平洋側。

 

仕事終わりの車の中で毎日エンドロールみたいなさみしくなる曲を流すのがデフォルトになってる。しっかり1日を終えて家に着くころには仕事のことはすっかり頭から抜けきって帰る。そうでもしないと精神と感性がしぬ。心に余裕が欲しい。

昔から、苦痛な時間に身体が縛られている時、よく考えていた、いくら身体を拘束できても精神までは縛らない。わたしが何を思おうが何を考えようが、誰にも侵されない。どんな時も自分の領域を守ってきた。何があっても揺るがない自分の確固たる意思を。だからこそ息苦しい時がある。自分の領域を守れば守るほど、自分の内堀を埋めるようになる。

未来圏から吹いてくる、透明な清潔な風をわたしは未だ感じきれていない。それは一体どんな匂いがするのだろうか。心の底から温まるような芳醇な香りか、はたまた、脳内を一掃するような爽やかな香りか。わたしたちは未だ多くのものに縛られている。その場の雰囲気、飲み会のノリ、暗黙のルール、社会規範、法律、時間、重力、、、目に見えないあらゆるところにうごめくエネルギーは変換され保存され時には何にも変えられないままそこかしこに充満する。わたしたちはただただその一部として存在するにすぎず、しかしその縛りこそわたしたちを自由たらしめるものであり、それらから解放されてしまえばこの世界を象る秩序は失われてしまう。わたしは感じてみたい。日々の生活で生まれるどす黒い感情で鼻が効かなくなる時があるけれど、颯爽と未来圏から吹いてくる透明な清潔な風を、わたしは感じてみたい。毎日「生きててよかった」と思いたい。