空飛ぶくじら

世界の美しさを封印

美しく調和のある世界③



計画とは倒すために立てるものである。とりわけ計画が緻密になればなるほど、駅前に並ぶ自転車が一つ倒れると将棋倒しになるがごとく、出鼻をくじかれればその日の予定はしっちゃかめっちゃかになる。それが自然の摂理だろう。

旅行計画とは得てしてそういうものである。


6時にセットされた目覚ましに起こされて不機嫌なわたしは目覚ましをかけ直し、結局は7時に起床する。完全に出遅れた感が否めない。早起きして混雑する前の清水寺をゆっくり参拝しようという算段が水泡に帰しかけた。
居心地のいいベッドに別れを告げホテルをチェックアウトして外に出ると、眩しいほどの快晴が建物の奥に広がっていた。
駅前でコインロッカーに荷物を預け、バスに乗る。

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朝の二年坂は閑散としていた。
華やかな和服を着た男女と撮影機械を携えた人々の横を通り過ぎる。どうやら結婚式の撮影のようだった。
産寧坂に合流するところで人ごみにぶつかった。韓国人ツアー団体、修学旅行の学生集団、中国人の夫婦、国籍雑多な人々。行く先はみな同じだろう。
両サイドに軒を連ねる土産物店に光走性で反応する蛾のごとくふらふらと迷いこむツアー客の集団の中を颯爽と風を切って歩く。

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清水の舞台からの眺めは絶景で、羽が生えて飛んでいけそうな気がした。理性を失って大怪我をする前に早々に立ち去ろう。正確には修学旅行生がおみくじやら写真撮影やらで押し合いへし合いし出したからである。そんなところで桃色遊戯的おしくらまんじゅうをするつもりはない。人恋しさに負けてたまるか。

舞台を過ぎた先には縁結びで有名な地主神社があった。みれば祭神は大国主命。御丁寧に因幡の素兎まで二足立ちで出迎えてくれている。
境内は色めき立つ和服姿の修学旅行生で溢れかえっていて、いつか黒歴史の一部となるべき青春の一頁を今まさに謳歌している様子にわたしの思い出したくない酸性の過去まで思い出され危うく涙腺が決壊するところであった。
欲しがりません行くまでは、の精神で夏に出雲大社へ縁結びのお参りに行くと固く決心をし、挨拶程度参拝してからその場をあとにした。


二年坂を下って高台寺を冷やかし程度覗き、さらに下って安井金比羅宮を参った。見た感じ普通の神社となんら変わりない。しかし社務所前には何やら白いかまくらのようなものがあり、よく見るとどうやらビッシリと紙が貼り付いているせいで真っ白ならしい。陰陽師が使うヒトガタのようだった。隣にたくさんある絵馬のなかにはおびただしい文字が交錯しており、文字自身が生命を宿した妖怪のように思えてわたしは少々酩酊した感覚に陥った。
逃げるようにその場を去ろうとすると白猫が目前を横切った。西洋で黒猫が横切ると不吉とするなら、これはもしかして吉兆のしるしなのでは。全く身に覚えのない日頃の善行がついに功を奏したようである。

祇園でバスに乗り、四条高倉で降りて佛光寺に向かう。境内の中にあるカフェで京野菜ランチを食べた。水菜の胡麻和えを咀嚼していると何かが口内でゴリっという音をたてた。矯正の金具が取れたのである。わたしは憤慨した。何が吉兆のしるしだ。

満腹になったあと、バスでゆらりと嵐山へ向かった。そこは車道に溢れるほどの観光客のごった煮。心底混ざりたくない鍋の底から這い出るように野の宮のバス停を左に折れると、青々とした竹林のささやき声をかき消すような種々雑多な言語とカメラのシャッター音。良縁欲しさに立ち寄った野宮神社の狭い境内は、赤い糸がこんがらがって収拾がつかなくなるのではと懸念するほどの人口密度を有していた。
とにかく人、人、人、ホモサピエンス!よりによって斎宮に所縁のある神聖な日本の神社の中でグローバルな交流を行う気など毛頭ない。静かに参拝させてくれというわたしの内心の祈りもむなしく冬の高空に溶けた。
特にカップル。相手がいる以上に何を望むのだ。他の縁でも結ぶ気か。ひとり身を冷やかすつもりで参拝しに来たのなら阿呆神が黙っていないぞ。手がふやけるまで末永く爆発して然るべし。


文章にまとまりがなくなってきた。苦手な早起きを連日強いられているせいでまともな思考が困難である。椎茸のほうがまだまともだ。
明日も6時起きで、これで月曜日から毎日6時起きということになる。6時なんて大学生にとってはやっと夜が更けてきた頃だ。日の出もまだではないか。


野の宮に来たバスに滑りこみ、立派な松が並ぶ大覚寺にやってきた。

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とても立派である。昔のみやびな都人が歌に詠みたくなる気持ちもわかる。

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玄関はとても立派だった。いかにも帝が乗ってそうな御輿である。
ここものんびりできるお寺であった。嵯峨御所ということもあり、長い回廊と広い敷地、凝った庭園など当時の生活が垣間見えるような優雅な美しさがそこにあった。
垣間見、といえば貴族の男が良い女人を庭の垣根の合間から覗き見る様子を思い浮かべてしまう。歌を詠んで文を渡し、夜這いし、恋に破れ生霊になり、昔の貴族は恋の火遊びに大忙しである。わたしは思った。もっと他にやることはないのか。


ぎりぎりに仁和寺を参拝した。ぎりぎりだったためにすぐに京都駅に戻る羽目になり、すでに見飽きてしまった京都タワーを目指してバスに揺られた。
こうして、今回の旅の幕は閉じた。


お忘れかもしれないが、この日の計画は初っ端から頓挫している。よって起床以降、行き当たりばったりで予定を詰め込んだ。今回の教訓は、計画は緻密に立てない、ということだろう。