空飛ぶくじら

世界の美しさを封印

ハイドレンジアブルー

 

3度目の春か来た。迷いもなく、憂いもなく。悔いもなく、戸惑いもなく。

こうして明日を、4度目の春に向かって生きていく。

何かのはじまりは兎角ブルーになりがちである。環境の変化が伴えば尚のこと。自分の身体の変化にすら追いつかないのだから、目に見えない変化なんぞ受容し切れるはずがないんだ。3日に一回は半狂乱になって夜の国道を走るようになってしまった。

語り尽くされた物語の筋書きをなぞるつもりは毛頭ない。わたしはわたしらしく自由に生きる。そうやってある意味「無敵」の状態で今までやってきた。それがここにきてどうだろう。一体これがわたしのこれまでの総決算だというのか。毎日がこれまでの人生の結晶になる。わたしは何がしたかったのか。エネルギーに満ちた根拠のない自信はどこに昇華されていったのだろうか。

 

同情するなら金をくれ。みたいな語感で、何でもいいから救われたい。

救われたい、とか言ってる時点で他力本願すぎてダメ。恥を知れ。然るのち無知を知れ。前言を一瞬で撤回していくスタイル。

よく考えたらさ、今までの人生、のらりくらりと生きてきたせいで成し得たことが何一つない。これはひどいぞ。金だけかけて実績ゼロ。何てこった。言い訳ばっかりで、都合よく権利ばかり主張する大人になってしまった。本当に、どこにいったんだろうな、あの頃のわたしは。考えることをやめてしまったら、それは怠惰で過ごすだけの生きる屍だ。これはかねてより展開している持論である。現代は、感性なんて邪魔なだけで、如何に効率的に合理的に個性を埋没させて生きる人がうまくいく。埋まれば埋まるほど、足掻くことも声を上げることもできなくなっていく。

春が来た、とか言ってる間に既に夏。

年々いつのまにか過ぎ去る季節にわたしは驚くばかりです。そんなに急がなくてもいいのに、ね。

何となくじゃなく、特別な思いがあったからいまここにいる。今はどうだろう。あの頃の思いのままここにいるのかな。わたし一人が変えようとして変わるものじゃないし、何かを発信する才能も努力もないけれど、少しは社会の変化に関与できていると思いたい。国民の一人として、未来を憂える一員として、おかしいことをおかしいと思えるように、素敵なものを素敵だと言えるように、ずっとそうありたい。

 梅雨ってきっと、鬱屈した気分が渦巻くそんな季節なんだな。嫌いだよ、雨なんて。洗い流してほしい感情は一つも綺麗にしてくれないのに、ただ前髪を濡らしてわたしの気分をブルーにさせるだけなんだから。

 

 

・今年の11月最後の日、ヒョウとみぞれが降った。少し明るかった空が急に翳り、ゴツゴツと音がしたと思ったらたくさんのヒョウが降ってきた。仕事中だったわたしは手を止めて咄嗟に上司と顔を見合わせ、窓の外を見ると小粒大の氷の塊が降っている。ヒョウなんか見るのは本当に久しぶりで。そのあとみぞれに変わり、そしてその日の夜は完全に冬の匂いだった。わたしは「ああ、きたんだな」と深呼吸しながら思った。

人が季節を感じる瞬間はいつなんだろうか。

たとえば視覚、木の様子、花の色、空の模様、人の服の装い。雪が積もったあとの静けさ。肌をくるむような冷気。吐く息の白さ。わたしたちは五感の中に生きている。平坦な現代の生活の合間に、敏感に生きていく。感動しなくなれば、惰性で呼吸しているだけの生きる屍だ。

 

・昼間の突風の所為か、帰宅したら玄関の前に黄色い絨毯が敷き詰められていた。近くにイチョウの木はないはずなのに、どこから煽られて飛んできたのか。ちょうど建物のど真ん中に位置するわたしの部屋の前は強風の日に遠路はるばる飛んでくる葉っぱたちの吹き溜まりになることがしばしばある。今年の秋は紅葉を見に行ったり落ち葉拾いに公園に行ったりできなかったので、吹き溜まっている葉っぱたちをみて少し嬉しくなった。

最近おすそ分けでもらった銀杏を食べる機会があった。茶碗蒸しに入ってる銀杏を避けるタイプの人間だったので、なんとなく食わず嫌いで今まで食べてこなかったが、殻を割って電子レンジで温めて塩につけて食べるとほくほくしてすごく美味しい。日本酒が欲しくなる。においが強烈だけど。昔の人はあのにおいがするものをよく食べようと思ったよね。コンニャクとか梅とか、そのままでは食べられないものを食べられるように工夫する執念、すごい。

 

・偏頭痛持ちの暖房酔いを起こす人種にはつらい季節がやってきた。よりによって温風直撃の席である。もうわたしのデスクは外でいいから暖房のない環境で仕事したい。働くことに向いていない。

輻射熱なら大丈夫だから、電気ストーブとか薪ストーブとか、エアコンじゃなければ生きていける。部屋の中ではコタツと電気ストーブ。温風がだめ。これわかる人いないかな。偏頭痛も暖房酔いも社会的にマイノリティすぎて理解されにくい。めちゃくちゃ日常生活に支障きたすから。それまで我慢していた分帰宅したら一歩も動けなくなるから。下手したら何日か長引くから。なんなら生理痛より酷いし、生理痛併発したら地獄をみるから。まじインフェルノだから。みんなに合わせる社会じゃなくて、一人一人が働きやすい環境にしてほしいな。日本のムラ社会的思想は一人称がやたら大きくなりがち。金子みすゞを見習ってほしい。みんなちがって、みんないい。現代の捻くれた個人主義じゃなくてさ、共感じゃなくて認識しあえる環境がいいな。そんなことを考える、冬。ほんとはみんな、もっと休みたいよね。わたしも休みたいな。

恋と酸欠

宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という詩を何かの節目によく思い出す。モラトリアムの闇の中に希望を見出すような、とにかく10代の頃に出会ってよかった作品だと心底思う。熱心に仏教研究をしていた宮沢賢治の自己犠牲を美徳とする聡明な死生観は、わたしにとって目が醒める思いがするほど強烈に脳裏に焼きついている考え方の1つだ。わたしにはそんなに透きとおった考え方はできない。歳をおうごとに心の底に澱のような冷血でどす黒い感情が沈殿し、過去が眩しく思えるほど、自分の未来が真っ暗に見える瞬間がある。日々のルーティンワークをただ半永久的に消費するだけの生活が、ただ果てしなくて苦しくてつらい。日々の生活に溺れる。特に何もしていないのに、特に何もしていないのがつらい。

 

最近すっかり冬の匂いになってきた。鼻がやたら敏感なわたしは立ち止まって季節の匂いを感じることが多い。特にこの、秋と冬が混じりあった空気が好きだ。厚手の毛布を出したりコタツを出したり電気ストーブを出したり、冬支度をする過程も好きだ。マフラーやコートに埋もれてる人を見るのも好きだ。寒がっている人はかわいいと思う。

頻繁に行き来している所為でよくわかるけど、日本海側と太平洋側でも空気が全然ちがう。日本海側が腹の底からしっとりと冷えるのに対し、太平洋側は突き抜けるような空に吸い込まれる冷たさ。同じ寒さ、同じ季節でも地域によって匂いがちがう。生まれてから25年、住むところも日本海側と太平洋側を何度も行き来している。勘違いかもしれないけど、日本海側でアトピーに悩まされていたのが太平洋側に引っ越したらぱたりと治り、また日本海側に戻って原因不明のクシャミに悩まされていたのが太平洋側にまた引っ越したらぱたりと治り、土地気候の向き不向きは少なからずあるんじゃないかと思う。わたしの場合は生まれこそ日本海側だけど、肌に合ってるのは太平洋側。

 

仕事終わりの車の中で毎日エンドロールみたいなさみしくなる曲を流すのがデフォルトになってる。しっかり1日を終えて家に着くころには仕事のことはすっかり頭から抜けきって帰る。そうでもしないと精神と感性がしぬ。心に余裕が欲しい。

昔から、苦痛な時間に身体が縛られている時、よく考えていた、いくら身体を拘束できても精神までは縛らない。わたしが何を思おうが何を考えようが、誰にも侵されない。どんな時も自分の領域を守ってきた。何があっても揺るがない自分の確固たる意思を。だからこそ息苦しい時がある。自分の領域を守れば守るほど、自分の内堀を埋めるようになる。

未来圏から吹いてくる、透明な清潔な風をわたしは未だ感じきれていない。それは一体どんな匂いがするのだろうか。心の底から温まるような芳醇な香りか、はたまた、脳内を一掃するような爽やかな香りか。わたしたちは未だ多くのものに縛られている。その場の雰囲気、飲み会のノリ、暗黙のルール、社会規範、法律、時間、重力、、、目に見えないあらゆるところにうごめくエネルギーは変換され保存され時には何にも変えられないままそこかしこに充満する。わたしたちはただただその一部として存在するにすぎず、しかしその縛りこそわたしたちを自由たらしめるものであり、それらから解放されてしまえばこの世界を象る秩序は失われてしまう。わたしは感じてみたい。日々の生活で生まれるどす黒い感情で鼻が効かなくなる時があるけれど、颯爽と未来圏から吹いてくる透明な清潔な風を、わたしは感じてみたい。毎日「生きててよかった」と思いたい。

 

台風の子孫

 

昔から、雲の流れが速いのをみて、上流域とわたしが立っている地上との差を感じるのが好きだった。ちょっとしたタイムラプス動画を見ているようで、変に心がワクワクした。台風の前兆、あの嵐の前の静けさが好きだ。

 

毎日毎日せわしなく生きる日々の中で、ふいに立ち止まって空を仰ぐ。深呼吸する。目を瞑る。このままだと自分が自分ではなくなるのではないか、不当な扱いの1つ1つに、都合のいい風潮の1つ1つに染まり続けてついには自分の意識も潰えるのではないか、そんな思いに駆られて焦燥感を覚えるときがある。夢はあれど未来がない。そんな思いを抱いて生きているわたしと同年代の人はきっと多数なんじゃないだろうか。

 

大切な人を守るためにわたしは自分を犠牲にしたくない。なぜならわたしの大切な人の大切な人はわたしだから。

 お互いを大切にしながら生きていく。知らない人に優しくなれなくても、大切な人を大切にしていければきっと社会全体でまあるくなれる。もう少しだけ他人に寛容になれる。

自分を許して他の人も許してあげたい。リスクに寛容になればこの世界はまだ生きやすくなれる。

 

台風は多くのものを巻き上げていった。いま一度立ち止まる時なんだろうか。安定を好むわたしたちの地盤が余りにも不安定で脆弱なものであることを認識する時なんだろうか。

 

コットンタオル

今年に入ってから何千㎞移動をしているか、自分でも計り知れないくらいには移動している。ゲルマン民族もびっくりの大移動である。

乗り物酔いを全くしないので、本を読もうがお菓子を食べようが逆立ちしてようがへっちゃらなんだけど、どうしてもぼんやりと外を眺めてじっと移動に徹することがこの年になると多くなった。ちゃんと読みたい本も持参し、いつでも音楽を聴けるようにイヤホンも持ってきてお菓子や飲み物も準備する。移動中暇にならないようあれこれもってきても、結局じっとしてるか寝るかして目的地に着いてしまう。いろいろ無駄な荷物になることが多い。しかし元々財布と携帯以外持ち歩かない性分なので、これらがないとほぼ手ぶらになる。それでは少し心許ないので、無駄だとわかりつつも文庫本を忍ばせたりお菓子を買ってみたりして荷物を増やすのだ。

 

今年の夏も終わりが近い。

理不尽なことに腹をたてる機会が多くなり、わたしの周りには腹が乱立している。こうして身動きが取れなくなり、だんだん短気になり、機転を利かせることができなくなる。生きていけばいくほど、生きるのが下手になっていく。

社会人になれば遊ぶ時間がなくなる、と学生時代によく言われた。社会人とは何か。社会(の歯車として社会に消費される)人のことを指すのか。わたしはそんなのはまっぴらごめんだ。融通性が効かない社会に腹をたて、しかしわたしには何もできない。融通がきかないのに、みんな息を殺してひっそりと生きている。どうしてだろう。どうしてもっと寛容になれないんだろう。いつも思う。始まりには厳しいのに終わりには緩いなんて御都合主義にも程がある。

 

移動中、あまりにも寒いので(半袖、カーディガン忘れた)コンビニで小さめのバスタオルを買った。オーガニックコットンの肌触りのいいもの。

生きやすさ、を求めてはダメなんだろうか。わたしは少しでも楽をして生きたい。楽は悪、なんて誰が決めたのだろう。つらいことは避けたいし、楽しいことを進んでしていきたい。幸福追求権。平等にある権利を声高に主張したい。協調も大事だけど、誰かに遠慮して生きるのは嫌だ。

 

 

ルイボスティー

 

SNSが普及してから他人にエンターテイメントを提供するのが主軸になっているような人があちこちに増えたような気がする。ニュースすらエンターテイメントになるこんな世の中で、今日も消費コンテンツとして誰もが傍聴者として社会問題がネタにされる。そんなわたしも傍聴者。

 

ルイボスティーを飲んだ。甘くてコクがあるのに後味がすっきりするお茶。

風邪をひいたみたいなので葛根湯を飲んですぐに寝た。今日は朝からiPhoneの画面がバキバキに割れるし、頭痛はだんだんひどくなるし、雨は降るし、卵2個も床に落とすし、踏んだり蹴ったりだった。こういう日は何もしないほうがいい。だからルイボスティーを飲んで心を落ち着かせながらぼんやりする。ほのかに頭痛の名残を感じる頭を押さえながら、やっぱり寝たほうがいいな、と思う。こんな体調でも洗い物をしてマットの漂白したから我ながらえらい。ところどころで自分を褒めていかないと生きるモチベーションが続かない。今日も正常に呼吸してえらい。

 

・特に書くこともないのでわたしの鉱物コレクションを紹介する。アンモナイトストロマトライト、フローライト2つ、珪化木、ラピスラズリ、ちっちゃい水晶3つ。全部お気に入り。がんばって増やしてく。

 

 

 

 

空中都市

・社会にも他人にも干渉されないのどかな世界に住みたい。自給自足で生きているだけの小さい畑と小さい田んぼ、酪農、パソコンでのみやり取りする在宅の仕事。月に一度だけ、「外」に買い物に行く。そんな生活。

はっきり言って現代病なんだと思う。社会に属したくない。こうなればもう協調を主軸に自然淘汰で勝ち続けてきた人類の終焉だろう。第三次産業が盛んな国では死活問題だ。国内の食料自給率が減少する一方で肥大化する第三次産業。国民みんなお客様。じゃあ誰がこの国の未来を創造するの?誰もがサービスを傍受する側。わたしは無闇にお客様になりたくないし、サービスを期待されたくない。

地球上の約7割が海であり、そのうち約9割が深海と呼ばれる海域である。地球上の約3割を占める陸地に人類がみちみちっとすし詰めで暮らし、日々うごうごしている様子を天から眺めている神様はさぞ足元のゴミどもにしか見えないだろうな。そんな塵にも満たないわたしは人類がいない深海に潜りたい。

 

・久しぶりに豚汁を作った。冬の豚汁はやばい。無限に食べていられる。里芋とにんじん、さつまいも、ネギ、キャベツ、板こんにゃく、しめじ、豚コマをグツグツ煮てほんだし入れて味噌をいれた。キャベツは別のフライパンで炒めると美味。

 

・冬は電気代がかかる。年々エアコンがダメになりとうとう今年からはコタツと電気ストーブで過ごすことになった。寒いときは布団が一番。